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67団の伝説を 不定期ですがお届けまします。

第26話 P旗があがった(2006年11月3日)
 今はないボーイスカウト愛知連盟の野営場が八百津にありました。それほど広い野営場ではありませんが、丸山ダムをひかえ、見下ろすとゆったり流れる蘇水峡を見る山の中腹がキャンプサイトです。

夏期キャンプの朝、テントが開けられ中からスカウトが首をのばし、国旗ポールの方を見ました。ポールに何も揚がっていないことを確かめると、いつものように寝袋をたたみ始めました。スカウトはP旗(ピーき)があがっていないかを気にしているのです。

P旗とは船舶の国際信号旗で、青地に四角の白抜きの旗です。港内で揚げられ「本船は出港しようとしているので全員、帰船されたい」という意味で、これを見た乗員は何をおいても船にもどらなければなりません。ある意味では、違った場面の始まりの合図です。

信号をその年の夏のキャンプのメインテーマと考えた隊長は、いろいろ調べているうちに船舶信号を知ったのです。ボーイ隊のスカウトにはP旗の意味を説明し、この旗が揚がるのを合図にハイキングが始まることを知らせてありました。しかし、スカウトにはその合図が何時揚がるかは知らせてありませんでした。この年のキャンプがひとつの物語でありゲームでした。夏のキャンプのテーマは「その朝、P旗があがった」に決めました。

スカウトはテントの前で食卓やカマドの他、縛材で信号塔をつくったりしながら時々ポールの方を見ました。みんな、これから始まる冒険にワクワクしていました。

三日目の朝、ついにP旗が揚がりました。スカウトは、手早く個人装備をまとめ、隊本部からこれから始まるハイクの3食分の食料を受け取りました。なぜ3食分かというと、キャンプ地をベースキャンプとする、1泊のハイクだったのです。今から、スカウトは先輩スカウトと二人組みの冒険の旅に出発です。

これが、名古屋67団に今も続く、第1回「リンツーハイク」の始まりの朝の話です。






第25話 マムシの骨〔2006年8月18日)
名古屋67団のリーダーも個性的な人が多い。大体が、何の個性もない人がボーイスカウトやっているはずがないのだから、ボーイスカウトでは個性的であることは普通といえる。

個性的といっても、その多くは道具や趣味にこだわったもので、性格がどうこうと言ったものではない。
今日はナイフとサバイバル好きの元ボーイ隊K副長の話で、シルベスタ・スタローンやシュワルツ・ネッガーの映画がヒットする前の話。

名古屋駅にボーイ隊のハイク到着の迎えにいった。疲労感は見えるが、みんな満足そうな表情。列の中からK副長が進み出て言った。「お土産です。少しですけど・・」手の中にはちり紙。開いてみると2cmほどの骨付きの肉。「何だ?」「マムシです。少しですけど・・」

 場所は第13話に出てくる青川峡の上流ハイクのこと。ボーイ隊は堰(せき)や大石を超えながら上流を目指した。登山道は今は使われていない治田峠の向こう、滋賀県側の茨川に抜ける峠道が微かに残っていて、その途中には鉱山の跡も少し残っていて、古い祠も朽ちてあった。

マムシはその途中で、K副長が捕まえた。さっそく解体し焼いてみんなで試食したという。解体したマムシを通りすがりの登山客が珍しそうに覗いていったそうだ。その横で、K副長は得意そうにしていていたという。

 私に食べさせたくて、その一部を紙にくるんで持ち帰ったのだ。さっそく、みんなの前で食べてみた。塩味が欲しいが鶏のササミのような味で、食べるところはあまりない。残った骨の断面は脊髄(?)を中心に八方に骨が出ていた。初めて食べたスカウトたちは興奮した口調で、その時の様子を聞かせてくれた。

今も、引き出しの奥に、その時の骨が残っている。
あの時のスカウトはハイクの内容は忘れても、マムシの肉の味と、その時の体験を覚えているだろうな。

団に残る「お土産はマムシの骨」の話です。

第24話 黄色いハンカチハイク・シュラフの燻製編(2006年7月18日)
黄色いハンカチに似せた、大きな黄色の旗を目指して上り、林道に出たところにポイントが在り、そこに通過サインをして次のポイントを目指す。ここからは地形図に記載された通常の道を歩く。今日の最終ポイントは、茶臼山の無人休憩所。

全員、到着したところで今日のビバーク地にバディで移動。今夜は2人だけでシート1枚で寝る。
山の夜は早い。辺りは既に真っ暗で、自分達の懐中電灯だけが頼り。ここからは、みんなは何処にいるのかまったく見えない。

 シートの屋根ができるのを待っていたかのように台風の前線の影響か雨になった。各自、早々に固形燃料と携帯食料で夕食をすませ、ミカンの缶詰を食べると、雨のため何処にも行けないので、とりあえずシュラフ(寝袋)を出して、中に潜り込むと昼間のハイクの疲れで眠ってしまった。

 次の朝、冷たい雨で目が覚めた。昨夜、眠り込んでシートの屋根から飛び出したようで、シュラフがすっかり濡れてしまった。すぐに湯を沸かしてコンデンスミルクをとかしたホットミルクを飲んだら温まった。

 簡単な朝食を終えると手早くパッキングして指定された場所に集合。どこからともなく仲間が集まってきた。みんな口々に昨夜の体験を興奮した口調で話している。今日は、この山の向こう側の野外ロッジで舍営してるカブ隊を訪問するだけに、心は軽い。

 いっぽう野営地では、ちょっとした騒ぎになっていた。昨夜の雨でシュラフが濡れたことを潜んで帯同していたリーダーから聞いていたからだ。「シュラフが濡れていると今夜どうなる?」「雨が降っていて乾燥できない」ということでマーキー(と呼んでいる側布のついた大型テント)の中で火を炊き始めた。

 スカウトが到着した。24時間だけだが、班長や隊リーダーや親からも開放され、冒険してきたんだから・・全く元気なものだ。

 全員のシュラフ集めて、マーキーの中に何本もロープを張ってぶら下げて乾燥した。中は煙でいっぱいで巨大なソーセージみたいだった。

その夜、スカウトはフカフカに乾いたシュラフで眠りについた。そのシュラフは燻製の匂いがした。ボーイスカウトのキャンプの匂いだ。

これが67団に伝わる「シュラフの燻製」の話です。

第23話 黄色いハンカチハイク(2006年5月21日)
 アイデアは何処にも転がっているもの。問題はアイデアに出会った時にそれをつかまえられるかっていうこと。と自分の計画を正当化するところが、少し姑息だけど・・
 
 人は、感激したあと、しばらくはその感情が態度にあらわれるもの。たとえば、ロッキーの映画を観た後、映画館から出てくる人はみんな、優しいけれど闘う男になっている。ロッキーみたいに・・。

たまたま観たのが、当時話題の高倉健の「黄色いハンカチ」。あれには泣けた。炭住(炭鉱の従業員の住宅)にはためく希望の黄色いハンカチ。で、決まったのが「黄色いハンカチ」ハイク。

 場所は、売木村をキャンプ地に決めて、ハイクのコースの選定に入った。またまたリンツーハイクのことだが、すぐ近くには愛知県最高峰、といっても標高1415mの茶臼山がある。

ここを中心としたハイクのコースを探した。地形図とにらめっこして片っ端から歩き回ったが、意外と山間地の道路は一本道が多く、近道がない。(あたりまえの話で、道は地形にあった一番使いやすい場所にある)在ったとしても、時代が変わり、今は使われなくなり草や木が茂ったり、道が消えたりしている。携帯電話もGPSもない時代のこと。

 候補のうち、最後に残ったのが山に向かって行き止まりになっていて、その先は植林を待つ草地のなだらかな斜面が重なるコースで、その先に茶臼山がある。200〜300メートルほど上に道路があり目的地に出る。上から見ると登ってくる人が良く見えるが、下からはまったく見えない。

そこで登場するのが黄色いハンカチならぬ「希望の黄色い旗」。幅1メートルほどの旗を何本か立てた。1本にたどり着くと、次の旗が見えるように配置してある。

道の終わりの小さな古い祠(ほこら)での指令は「道がなくなったところから見える黄色い旗を目指して進め」スカウトは次々と登っていく。ウソみたいな話だけど、天気がくずれて霧がでてきた。安全のため身を潜めてガードするリーダーの姿も見づらくなってきた。スカウトたちは全員、上の道路に出た。今夜はこの先に別れて泊まることになっている。

と、今日はこれでお終い。スカウトには、これから大冒険が待っている。これがあの「黄色いハンカチハイク」の第1部です。

第22話 松川・スカウト到着せず その2(2006年4月17日更新)
 昨夜の雨はひどかった。マーキーの布製の屋根に雨が溜まって垂れ下がるほどの大雨だった。ここは、長野県松川の野営地。ハイクに出かけたスカウトはどうしただろうと、野営地の留守番の大人たち(隊リーダーは、同行している)は思った。

 帰ってくるボーイ隊を迎えるため、カブ隊の母の会は昼食の準備をしていた。この昼食は、ボーイ隊招待のお返しだった。あの雨で、きっとスカウトは、ずぶ濡れだろうとささやき合っていた。

 カブ隊のS隊長は、ボーイ隊が帰ってきたとの報を受け、カブスカウトを集め迎えの列をつくった。これから、自分の隊のカブスカウトが上進していくボーイ隊の姿を見せようと思った。

アクシデントで出発が遅れたボーイ隊は、目的地の不動の滝まで行くことを止め、万一に備え確保してあった山の公園にビバークした。周りには人家はなかった。全員、それぞれが携帯食で簡単な食事をすませバディで寝た。

 夜半、雨になった。リーダーはスカウトを全員、屋根だけのあずまやに避難させた。そこで、朝までかたまって寝た。制服は濡れないようにザックの底に入れた。翌朝は快晴だった。野営地の500m手前で、スカウトとリーダーは制服に着替えた。汗で汚れた姿をカブスカウトに見せたくなかった。

 想像した汚れた姿と違い、さわやかにボーイ隊が帰ってきた。S隊長、カブスカウトや保護者は拍手で迎えた。スカウトは少し誇らしく、少し照れて到着の報告をした。S隊長は感動して泣いていた。母親たちも泣きながら拍手をした。スカウトは,感動的に立派に見えた。みんなの気持ちがひとつになった気がした。

これが、67団に残る「涙のハイク」の話です。

第21話 縛材160本 (2006年3月13日更新)
 広辞苑には載っていませんが縛材(ばくざい)は、ボーイスカウトが工作物をつくる時に使う小径の丸太や竹のことで、180〜200cmのものを使用します。この縛材で、快適なキャンプに必要な道具、カマド、食卓、工具置き、流し、ゲート、通信塔、橋、モンキーブリッジなどをロープだけでつくり上げます。

 縛材のゲートが開き、パスポートを手にしたカブスカウトやデンマザー(女性デンリーダーをこう呼んだ)が入国の手続きを始めました。パスポートには写真の代わりに自分の顔を描いた似顔絵が描いてあります。似顔絵と本人の顔を照合して入国です。デンマザーの顔は、みんな若くて美人(に描かれていた)で、本人と認定されて無事に入国しました。入国がすむと一人ひとりに、この国の100ヒョイのお金を受け取ります。(ヒョイはこの国のお金の単位)

 ここは、岐阜県中津川けやき平キャンプ場。この国は、名古屋67団のボーイ隊の国です。平成6年、この年は第11回日本ジャンボリーの年でした。ボーイ隊はジャンボリー参加者以外のスカウトで、カブ隊の夏期キャンプと合同のキャンプをしました(実際には派遣スカウトも全員参加した)。せっかくの合同キャンプです、カブ隊を招待する日に何か工夫をしようということになって、そこで思いついたのが隊を自治国に見立てるアイデア。

 ボーイ隊の各班は、班サイトのテント前に自分たちの料理(ジュース、デザートもあり)を販売し、この売り上げ金で夕食の材料を隊から買うというわけ。もちろん、お金は入国時にもらった100ヒョイ。お札にはH隊長の顔が印刷されています。スカウトは燃えましたネ。大声で客を呼び込みます。カブスカウトは、お札握って各サイトの前を行ったり来たり、作戦は大成功、売り切れ続出でボーイ隊は自分たちの食べる分まで売ってしまいました。終了後、使用したお札は全て回収しました、ニセ札として何処かで使われるといけないので・・(そんなワケないと思うけど)思い出深いキャンプでした。

・・・ところで縛材は?
あ、この時班長とH副長、S副長たちと作ったのが縛材160本、結索ロープ300本を使って縛材のジャングルジムを2基作り、一番上をツインタワーの連絡通路のように長い縛材でつなぎ合わせ、渡れるようにしたもので、名付けて「ジャングルジムログ」。スカウトはこれにも大喜び。このアイデアは、その後日本の各地に建設されたツインタワービルの先駆けになりました(ウソです)。300箇所を縛った班長やリーダーの手は全員マメだらけ・・。今ボーイ隊が使っているロープの一部はその時のものです。

 

第20話 白鳥のブヨはすごかった! (2006年2月14日更新)
 ここは、白鳥(しろとり)のスキー場。スキー場のふもとに小さなバンガローがありました。バンガローを囲むように杉の木が立っています。ここがカブ隊の舎営地です。

 涼しくて良いところですが、問題がひとつありました。それは、ブヨ(ブユともいう)。昼間はとくに問題はないのですが、夕方近くになると何処からともなくブヨが襲って来ます。アブや蚊は羽音でわかるのですが、ブヨは卑怯にも?音もなくやって来ます。それも、大群で・・
土地の人に聞くと、午後4時頃になると、あの山の向こうから群れになってやって来るんだとか・・。

 そこで、午後3時過ぎると、バンガローの周りに一斗缶を砦のようにいくつか並べ、杉の葉を燻して虫除け。スカウトは長袖長ズボンに着替えて防御しましたが、それでも何人かは刺されました。ここのブヨは刺されると、痒いだけでなくものすごく腫れました。それも肘や膝、足首をさされると大変。朝起きるとパンパンに腫れて、痛くて関節が動きません。リーダーの何人かも、起きてしばらくは足を引きずっていました(時間経つと動くようになる)

キャンプファイアーの時、3人ほど足が腫れあがり、あまりに痛みがひどく歩けないので、見学に回ったくらいです。
土地の病院に行きました。それも10数人で・・。あとで聞いた話ですが、診察した医者は「ブヨに刺されたくらいで、病院に来るの?」といった感じで、「後の人も同じ?」と言われ、塗り薬くれただけとか。土地の人は、別にどうってことないんだって。

 この舎営のあと、あるスカウトは2年くらい刺されたところが膿んで治らなかったとか・・
ブヨが原因で、ここのキャンプはこれっきり。ホント、白鳥のブヨはすごかった。

撤収の日、「坂本 九が、飛行機事故で死んだって!」忘れられない話です。

第19話 松川・スカウト到着せず その1(2006年1月15日更新)
「スカウトが第1ポイントに着いていません!」トランシーバーから微かに叫ぶような声が聞こえてきました。スカウトが出発してから2時間経っています。安全な田舎道でゆっくり歩いても30〜40分で到着するコースです。(何故だ?何かあったか?)

 ここは、長野県松川、リンゴ園の中に野営地がありました。時どき、猿よけでしょうかパーンという破裂音が聞こえるほかは何の音も無い静かな処です。道を挟んで池があり、遠くには南アルプスが望めます。この年のボーイ隊長期キャンプも順調に過ぎていきました(もっとも、何か起きるまでは、いつでも順調ですが・・)この年は池の辺の集会所でカブ隊が舎営をしていました。

 ボーイ隊の出発の2時間前に、I副長以下2名は、下見をしたコースに*追跡サインをセットするために先頭のバディが出発する前に先行しました。ハイクがスタートしました。スカウトもリーダーも期待と緊張でワクワクしています。

今回のハイクは第1ポイントだけリーダーはポイントで姿を見せます。あとは、各ポイント近くに身を潜めスカウトの通過を確認する予定でした。トランシーバーを聞き、H副長と二人すぐに引き返し、第1ポイントから戻るように逆コースで探すことにしました。二人とも、何故、スカウトが消えたか判らず、緊張で目がつりあがっていました。

ホイッスル*危険信号を吹いては、時どき耳をそばだてました。「ピー!ピー!ピー!」何度も、何度も吹き続けました。しばらくして微かな応答ホイッスルが聞こえました。「居た!」「オーイ!」大きな声で叫びながら声のする方に近づきました。居ました全員。

 全員のバディ(伝説第2話参照)が開封された*「命の綱」を手にしていました。バディが全員集まって、話合って「一、二の三」で一斉に開封したそうです。進路が判らなくなったスカウトは指示通り「進路が判らなくなったら引き返すか、その場所を動くな、必ず助けに行く」を読んで、その場にいたのでした。

後日、間違えた原因が判りました。その日、ピクニックにでかけたカブ隊員が、道端にセットしたあった「左折せよ」「直進するな」の石の追跡サインを知らずに蹴飛ばしてバラバラにしたため、スカウトは直進してしまったのでした。

このあと名古屋67団では、ホイッスルの信号をS・O・Sのように、ボーイスカウト以外でも通じるように国際救助信号を採用し変更しました。これが、松川のハイクの始まりです。

*追跡サイン:ボーイスカウトがハイクなどで、後から来る仲間のために知らせるメッセージで、「危険」「進め」「曲がれ」「帰った」などを、石や木の枝で他人にわからないように残す信号のこと。

*ホイッスル危険信号:ホイッスル(号笛)の信号のひとつで、危険「− − −」(現在も使われるが当時は、この信号だけハンドブックに掲載)。10数年後、新しいボーイスカウトハンドブックには救助信号が掲載された。救助を求める時「1分間に6回吹き、1分休み」判ったという時「1分間に3回、1分休み」(国際救助信号・煙や明かりなどでも同じに使う)

*命の綱:ボーイスカウトのハイクの出発時に渡される緊急用指示書。本来は、自分たちだけで歩くところ、万一道に迷ったり、危険に遭遇した時に、どのようにするか書いてあり、ハイクの種類やコースにより指示内容が変わり、到着時に返却する。このため、スカウトにとって開封することは、地図が読めず、道に迷ったことになりスカウトには不名誉なため、できるだけ未開封で返却したい。すべての団が「命の綱」を渡しているわけではない。


第18話 ゴムが残った(更新2005年12月16日)
 ガラガラの電車が西藤原駅に近づくと激しい雪になりました。駅の周りに雪がある景色はGB雪中ハイク(第5話参照)が始まってからは、経験ありませんでしたので、雪国の駅に降りたような錯覚をします。

 最近では常識の*保温シャツの無い頃の話。駅の待合室で防寒着、帽子、手袋、登山用スパッツ(とわざわざ登山用というのは、以前スパッツと持ち物に書いたら、母親から借りたダンス用のゴム編みのスパッツ持ってきたスカウトいた)に、ウインドブレーカー代わりの雨具つけて、さあ出発。(もちろん、駅に備え付けの登山届けに大貝戸経由と書いて)

 いつもなら4〜5合目辺りから雪道になるところ今日は駅を出ると外は吹雪。一列になって吹雪の中を歩き始めました。雪の楽しさと怖さは、雪国の話をする時によく話をします。どんな楽しい雪の遊びも、天候がくずれたり、日が沈むと危険になること。それも、「命にかかわる危険」がすぐ隣にあること。例えば、冬は屋根の下に近寄らない(溶けた雪が屋根から滑り落ちてくる)こと。北国の人なら、誰でも知っている危険が、雪のない地方の人には判りにくいものです。

「記録係」が、その行程時間を記録して行きます。今回のハイクの課題のひとつは、各合目の通過時間のほかに、気温を測ること。家から借りてきた大きな寒暖計をザックに下げています。安全な登山道ですが、前後をリーダーが隊列を挟み、ゆっくり歩き続けました。

 八合目から先は冬道の直登。積もった雪に生えている樹につかまり、ハアハアいいながら登り続けます。相変わらず雪が吹きつけてきます。強い風や雪が正面から吹きつけられると、息が入るばっかりで、鼻や口を襟やマフラーで覆わないとなかなか息を吐き出せません(台風のような強い風も同じ)。

ようやく目的地の山小屋に到着しました。中に入るとみんなホッとして、話がはずみます。「H、お前の雨具は?」みんなHスカウトを見てげらげら笑い出しました。Hスカウトは200円で買った半透明のビニールのセパレーツ雨具をつけていました。Hスカウトの雨具は、寒さでパリパリに割れてしまい、襟と袖の周りに無残にぶら下がった切れ端に袖とズボンのゴムが残っているだけでした。本人は気がつかず、「何?」ニコニコ笑っていました。

これが、名古屋67団に伝えられる「ゴムが残った」話です。これから後、スカウトの雨具は安くてもセパレーツのしっかりしたものになりました。

*保温シャツ:ウールに替わって,新しく開発された化学繊維のシャツで保温性がある。アクリル製もあるが、ポリエステル製素材が多い。保温性があり吸湿性の無いクロロファイバー、オーロン(アクリル)、マイクロドライ、ポーラテック素材から吸湿拡散性素材のテクノファン、ジオライン他、多種の素材が開発されている。

第17話 八百津のおばけはこわかった(更新2005年11月13日)
 この年のカブ隊の舍営地。決まったのが、岐阜県八百津の旅館跡。当時ここは愛知連盟の野営場のひとつで、蘇水峡という名勝地を眼下にみる斜面に建つ古〜い建物で、玄関が最上階でどんどん下りていくと部屋があります。

というと素敵に聞こえますが、ひいき目にみても立派とは言えません。でも、静かな処で、斜面をチョロチョロ流れる小川からは沢蟹が道路に這い出してくる自然いっぱいのところです。

旅館跡ですから、部屋はいっぱいあり、風呂場は床も風呂も壁も2〜3センチ角のタイル張りでしたネ。どういうわけか、湿気の多い旅館で、なんとなく陰気な感じがしたのは私だけでしょうか。この年は、雨も降らず順調にプログラムが進んでいきます。今夜は、恒例の「肝試し」(全国的に今でも「肝試し」は行われているのでしょうか?)

あいにく、天気は下り坂。当初予定していた場所から雨でも実施できるように、屋内に場所を移すことにしました。なにせ、旅館ですから部屋はたくさんあります。大広間の後側に使われていない部屋があり、この場所に決まりました。広間の裏をスタートして最終点から課題の物を取って戻ってくるという計画です。昼間でも薄暗い、人のすんでいない壊れかけた部屋は気持ちのいいものではありません。

夜になりました。団委員さんがおばけの役、隠れる場所は自分で探します。廊下の曲がり角、トイレの中、なかでも壊れた風呂場の中はとても怖い場所でした。ちいさな風呂桶に隠れると、くもの巣が張っていて、蓋をすると真っ暗。スカウトは懐中電灯もって床をギシギシいわせながら近づいて来ます。待っている時間の長いこと(どうして、この部屋は開かずの間になったのだろう?)・・・「ギャー!」全員終わった後、団委員はみんな無口。あれ以来、屋内の「肝試し」は実施していません。ホント、この年の「肝試し」は怖かった。

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