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67団の伝説を 不定期ですがお届けまします。

第6話 カブ隊と学童農園(2004年9月12日)
伝説と意気込んだわりには、中途半端な古さで申し訳ありません。・・・とすぐ謝るところも伝説らしくなく、腰の軽いところで、話題をかえてみます。
今度は、 “カブ隊登場” のお話 〜 20年ほど前のカブ隊の話 〜
当時のカブ隊は、夏はキャンプと言わずに必ず「舍営」といいました(67団に限らない)。舍営とは、字の通り お寺・民宿・修道 院などの施設内や学校など
屋根のあるたてものを使用し、食事がつきものですから炊事のできる炊事場があるか、それとも3食付の民宿かと相場が決まっていました。
リーダーにとって、この舍営地選びが大変で、条件を言うわりに、ほとんどタダに近い施設を望むのですからななかなか見つかりません。
その頃は、まだ各地の自治体もいろいろな施設をもっているわけもなく、質素であることを旨とする名古屋67団(云うことがいちいち古い!?)は、
必ず自炊できる地方の集会場の広間とか、元保育園のお寺とかを利用していましたので、夢のある野外生活とは些かかけ離れた雰囲気でした。
テントは禁止でしたね。当時は、今でこそ10分で設営できるドームテントなどありませんでしたから・・・。もし、天候がくずれたらどうするのだ。どこに避難するのだ。スカウト待たせて徹営できるのか?
などなど。
さらに、当時スカウトが火を使うこと、刃物を使用することは禁止でしたから、炊事はすべて保護者が分担して用意しました。
それだけに、プログラムにかけるリーダーの情熱はすごくて、場所はどうあれ、気分はすっかりキャンプ生活です。ですから、各組のデント作りは真剣に、自分たちのキャンプサイトをつくるように、
その出来ばえを競いました。スカウトはいきいきとプログラムを楽しみました。それでも「緑いっぱいの自然のなかで舍営をしたい!」 心のなかでリーダーは思っていました。
借りられる屋根のある施設は、当然周りに人家があり森の一軒家なんて夢だ。そんな時、思いつきました。
“キャンプ場のバンガローには屋根がある” これを使えば「舎営」ではないか。
今思うと、ばかばかしい話ですが大真面目でした。
そしてその春(1986)、鳳来寺の学童農園山びこの丘で初めて、キャンプ場のバンガローで舍営をしました。そのときの、スカウトのはしゃぎようは、いまでも忘れられません。
本物の自然のなかで活動しているのですから。その喜びが、きっと今も続いているでしょう。

     * デン(Den 英語)(ボーイスカウト用語)
     動物の巣や穴のこと。カブ活動ではスカウトの組の集会本拠地を意味し、そのことから組そのものをデンと言う。
     加えて、ローバースカウトの場合でも、定例の集会場所を ローバーデン と言うことがある。

第5話 GB 雪中ハイク(2004年6月20日)
大阪出身のリーダーは、面白いというか、ユニークというかM隊長はいつも新鮮な提案をします。「2月のプログラムに登山をいれませんか?」1984年のことです。
2月はBP (ビーピー)祭*かなぁと考えていたところでしたので、新しい提案にすぐ飛びつきました。危険の多い冬山登山でない、安全な登山が条件でした。
選んだ山は、鈴鹿山系の御在所(ございしょ)岳、標高1000mちょっとの低山です。それでも、2月ですから頂上近くは雪があるはずです。
参加スカウトは、GB(グリーンバー)**に限りました。防寒だけはしっかりし、弁当はスカウト弁当(懐かしい!)に水筒の水、キャンディー少々。
靴はキャラバンシューズまたは革製登山靴と保護者に説明しました。対象スカウトは8名、参加するリーダーはCS隊、BS隊合わせて6名。
充分に説明したはずでしたが「冬山はあぶない」と親に反対され、当日の参加スカウトは3名でした。
5合目を過ぎて、踏み跡のある登山道をうっかり外れると足の付け根までの積雪で、さすがに息が上がり、
親戚の叔父さんから冬山用の本格的登山靴を借りてきたスカウトは、その重さにもうバテバテで、それでも全員が頂上につく頃は汗だくでした。
当日の風速は10m以上あり、標高考えると体感温度はマイナス16℃以下のはずです。全員が小屋の外で上半身裸になり、下着を替えていると、
タウンシューズ履いた女性が不思議そうにこちらを眺めながら通りすぎました。どうして?・・・御在所にはロープウエイがあったのです。
あれから20年、今は歩く山も藤原岳に変わり、1級スカウトは、ガスコンロで雪を溶かし、食事を作ります。
2級スカウトは、固形燃料で雪を溶かします。コッフェルいっぱいの雪を、早く溶かす方法、あなた知っていますか?

*BP(ビーピー)祭 
BPはボーイスカウトの創始者ベーデン・パウエルの略。2月22日の誕生日に近い日に、ゲームやソング、寸劇を通しボーイスカウトの歴史や教えを知る。

**GB (Green Barの略)
ボーイ隊の班長、次長章が、緑の横線(Green Bar)であることから、班長、次長をグリーンバーと呼ぶ。

第4話 67団の始まり(2004年5月4日)
名古屋67団は、ドイツ人神父と一人のスカウターの出会いから始まった。神父の名は、前任地の新潟からやってきた
ハインリッヒ・ホンナッケル。神父は何もない埋め立て地に、小屋を建てて泊り込み、教会を創り上げた。
1966年、念願の大聖堂ができあがった。聖堂には、集まり始めた信者と神父の故郷ドイツの援助もあり、パイプオルガンが完成した。
神父と信者の交流が始まった。信者の中に外国航路の通信士を父に持つ女性のMがいた。
MとT検疫官の妻は話が合い、ミサに参加し、よく話をした。この話の中に神父が入り、輪は広がった。
会話の中でT検疫官の話になった。
T検疫官の名は武田正義。当時、医学はドイツ語が使われた。このドイツ語が縁で神父は武田の自宅に行き交流が始まった。
神父は、武田がボーイスカウトのリーダーであり、名古屋西地区コミッショナーであることを知った。 偶然だった。
神父は、新潟の地でボーイスカウトの3箇団を立ち上げていた。神父は言った、「教会にボーイスカウトをつくりたい」。
武田は思った、「県連は組織拡張5年計画の実施中であり、信者の子息を集めればスカウトはすぐ揃う」。
武田は神父の要請を受けた。 神父の協力のもと、信者の中から発起人5名程度選ばれ、スカウトの募集が始まった。
神父は言った、「信者の子供は、日曜学校でなんとかなる、外部の子供はよりどころが無い、
ボーイスカウトがその子供たちを育ててほしい」。 さらに言った、「指導者も教会青年部以外で選んでほしい」。当てが外れた。
それでも、8名の指導者とスカウト12名が集まった。これで発団できる。またも神父は言った、「あなたも、この団で一緒にやってください」。
そんなつもりではなく、「自分は名古屋3団の団委員であり、新しい団をつくる手伝いをするだけだ」。
神父は、元の団と交渉し移籍を承諾させた。武田は覚悟を決めた。
1971年(昭和46 年)4月、名古屋第67団の活動が始まった。武田正義は初代団委員長となり、2003年9月、退任し団最高顧問となった。
ホンナッケル神父は1988年82才で世を去り、今、多治見修道院で眠っている。


第3話 オチカマド(2004年4月27日)
ーイスカウトの、特にボーイ隊に関係した人なら「オチカマドでなくて立ちかまど1)の間違いじゃないか?」
と言われそうですが間違いありませんオチカマドです。
これは20年ほど前のことです。ある夏に67団にしては珍しくカブ隊とボーイ隊が同じ場所で長期キャンプをしました。
基本的に67団では、カブ隊とボーイ隊が同じ年に同じ場所でキャンプはしません。
今回は同じ場所といっても200m 以上離れていますが、カブ隊はバンガローの舎営です。
ある日の夕方にカブ隊はボーイ隊を訪問しました。残念ながら、この年のボーイ隊は準備不足で、野営のための設営はあまり順調とはいえない
状態でしたので、ボーイ隊長はあまり見せたくありませんでした。訪問したときボーイ隊のスカウトは、ちょうど炊事をしていました。
立ちかまどは土盛が足らなく薄かったため焚き火の熱が土の下のスノコを焦がし焼け落ちてしまい、
底が抜けて砂時計の砂のように盛り上げた土がさらさら下に落ちていきました。
こうなると、かまどは悲劇的で火を燃せば燃すほど壊れていきます。
    
    そのあとは、どうなったかって?・・・。
      
それから、67団では土盛が足らないかまどや結索{けっさく(縛り、結び)}の良くないかまどのことを
「オチカマ」とか「オチカマド」と言うようになりました。

    そのあと、ボーイ隊はどうなったかって?
   
少なくとも翌年から、長期キャンプでは「オチカマド」は姿を消しました。それでも、少し手を抜くと立ちかまどはオチカマドになってしまいます。
ご用心!

1)「立ちかまど」おもに長期キャンプの野営地で、ロープと縛材(ばくざい)2)だけでつくる移動できる 「かまど」のこと。
台形に組み立て、地上より膝の高さほどにすのこ状に棚を作り、その上に土がこぼれないように 葉っぱや枝を置き、
さらにその上に15〜20cm くらいの土を盛って平らにし、その上で火を使い炊事する。
地面に接していないため、薪をぬらさず煮炊きでき、雨天にはフライシート(タープ)の下に移動できるスグレモノ、ボーイスカウトの秘密兵器のひとつ。

       2)組み立て工作用に使用する竹材や材木のこと。

第2話 リンツーハイクの始まり(2004年4月15日)
リンツーハイクのリンツーとは英語で差しかけ小屋(lean-to)のことで、アメリカの映画によくでてくる、倒木の根の下とか、シートをテント代わりに掛けたり、枝を差し掛けたりしてビバークするあれです。
名古屋67団では挑戦キャンプをこう呼んでいます。
今から17年ほど前に、テレビである青年がたった一人で24時間、自然のなかでキャンプをしたときに、有り余る時 間のなかで、自分の人生とか、これからの生き方とかを
真剣に考えているシーンがありました。それは、ある訓練の仕上げのソロキャンプでした。これが、ヒントでした。これを、一級挑戦キャンプ*に使えないかと考えました。
私が、カブ隊長のときに当時のボーイ隊のM隊長に相談して初めての実験リンツーキャンプを愛知県の茶臼山で実施しました。根羽村の梨の平より片道20km先の茶臼山キャンプ場に向かって、
ボーイ隊は出発しました。キャンプ場ではカブ隊がバンガローで長期舎営をしていました。8月の暑い日でした。すべて上り20kmの道を全員が日焼けして真っ赤になって夕方到着しました。
大きな上級生に混じってスカウトの中に4月に上進してきた小さな見習いスカウトもいました。カブ隊の全員が拍手で出迎えました。
この春まで、くまスカウトだったそのスカウトを見つけて、デンマザー(当時は女性デンリーダーをこう呼んでいました)は感激で泣きました。その夜ボーイ隊全員は、空き地で大きなブルーシートを張って、眠ったわけです。朝、目が覚めたらそこはキャンプ場の通路でした。
こうしてその翌年から始まったリンツーハイクは、バディ(Buddy二人の意)で実施される現在のリンツーハイクに
続いています。あの時から15年後の2003年、ボーイスカウト教育規定の進歩課目に「テント以外で手近なものを利用し、一晩過ごす」が加えられました。
*一級挑戦キャンプとは、一級課目の総仕上げとして、一級スカウト一名とともに徒歩行程12kmの距離を隊長より与えられた課題と方法で24時間以上旅行し、報告書を提出するもので、2003年9月に改正されたボーイスカウト進歩課目には一級挑戦キャンプはない。

第1話 ホンナッケル神父さまのこと(2004年4月15日)
私が、カブ隊長のころですからもう20年になりますか、教会の敷地でカブ隊の集会をしていると、神父さまはゆっくりとした足取りで近づいていらっしゃいました。
今思うと、フライドチキンのカーネルおじさんに体形は似ていました。    
カーネルおじさんをもっと品をよくして、もっとやさしそうにして、頭に小さな帽子を載せて(ローマ法王が頭にのせているあれです)いました。
冬は黒、夏は白の足が隠れるようなたっぷりした服をいつも着ていました。
そして、やさしい微笑みを浮かべてそっと右手を差し出します。
やわらかい温かい手でした。
聞こえるかどうかの小さい声で(日本語です)「こんにちは、ごくろうさま」
これだけで、みんな満足でした。
不思議ですよね、私たちはいつも見守られている安心させられる気持ちになったのです。
この五反城教会は、ホンナッケル神父様が何もなかったこの場所に苦労して建てたのです。 
つぎは、その頃のお話しと、名古屋67団ができた頃の話をしましょう。
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