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67団の伝説を 不定期ですがお届けまします。

第36話 「名誉テント」(平成23年11月29日)
 備品倉庫の中にひときわ古い救命具があった。それは戦時中か戦後にどこかで使用されたものか国防色(昔はカーキ色をこう呼んだ)の厚い布でできていた。形は大きめの円筒形のお茶の缶を2つ横にして胸と背中をはさむように固定して使うものだった。浮力を出す材料は不明で昭和62年の木曽郡のカブ隊の夏期舎営のプログラムに使ったあと、いつの間にか消えていた。

 同じように古い班用A型テントがあった。日本ジャンボリーや県大会で地区ごとに並べて設営するとスカウトが言った「貫禄があるが古すぎる!」発団以来だからどうみても20年は経っていた。「新しいテントを買おう!」団と相談して、とりあえず1張りだけ買った。その新しいテントは「名誉テント」と命名した。前回の隊キャンプで優秀班になった班にその使用権が与えられたのが理由だった。

 始めスカウトたちは喜んだが、そのうち複雑な表情をするようになった。優秀班の名誉は嬉しいが新しいテントには問題があった。理由は新しいテントの入口が船の船首のように突き出た前室があり、側溝を掘らなくても水が浸入しないような見慣れない箱型のグランドシート製だった。おまけに軽量化を図るためか支柱パイプは何となく弱く頼りなかった。なじみのない「名誉テント」はあまり使われなくなった。

 そしてさらに10年、名古屋67団は平成22年(2011)発団40周年を記念して新しくA型テントが装備された。ある晴れた日、BS隊全員で芝生のグランドで「テントの張り初め」をした。組み立ててみると、その形は舟形グランドシートをさらに進化した、あの「名誉テント」だった。

 これが名古屋67団に伝わる「名誉テント」の話です。

第35話 友情チーフリングの始まり(平成23年7月9日)
ボーイスカウトなるために親は早朝から並んで申し込みをしなければならない時期がありました1970年代の話です。しかも受付が済んでも保護者の面接があって入団が認められるという難関だったのです。このため途中の入団は欠員がないかぎり、まず難しいものでした。

時がかわって平成23年(2011)。いま日本中のボーイスカウトの団はスカウトを増やそうとやっきになっています。スカウトが減った原因はいろいろあるようですが・・・・

1997年のことです。スカウト数は減少をはじめました。名古屋第67団は、それなりにスカウト数が激減することなく活動していましたが、スカウトの入団募集にはいろいろ工夫をしていました。当時、団の周囲数百メートルの範囲のなかに5箇団がひしめいていたのですから。

ある日Sさんと話をしていました。Sさんは他の地区の団委員長さんでした。話は当然のようにボーイスカウトが話題になりました。「ところで、これなんだけど何かに使えない?」取り出したのは2cmほどの金属の三指です。三指はスカウトサインの手首部分をいいます。もとは、どうやらネクタイピンや襟バッジのための型のようでした。

「チーフリングにもできるんだけど・・」「色も金、銀、銅もできる・・」「友達を誘ってきたスカウトにこれをあげたら・・・」すぐに決めました。1人紹介して入隊したら銅。2人仲間を集めたら銀、3人になったら金のチーフリング授与することにしょう。「友情チーフリング」の始まりです。

その何年か後、日本連盟は「友情バッジ」を制定しました。授与基準は若干違いますが、紹介人数に合わせて金銀銅のバッジ授与するのは同じです。

 名古屋第67団では現在でもスカウトが仲間を増やしたら金、銀、銅のチーフリングをスカウトに授与しています。名古屋第67団でチーフリングが三指だったら、それは仲間を増やしたスカウトです。

第34話 ろくななのスカウトハウス(平成22年11月26日)

 名古屋67団の本部を「スカウトハウス」と呼んでいます。スカウトたちは、もっと縮めて「ろくななのスカウトハウス」といいます。
ろくななのスカウトハウスの天井はふすまが張ってあります。間違いではありません。ふつうなら部屋と部屋のあいだにある、あの襖(ふすま)です。

「神父様が、約束したんだ!」ボーイ隊のスカウト達は口をそろえて云いました。30数年前の話です。当時、カブ隊のスカウトハウスは既にでき上がっていましたが、ボーイ隊のスカウトハウスは、ありませんでした。

 催促されたホンナッケル神父様はそこで、当地に赴任し、小屋のようなところに寝起きをして布教をはじめた、その場所をスカウトハウスのために土地を提供してくれました。当時、団は発足したばかりで、お金はありませんでしたので、親たちは相談して一世帯に1万円づつ出し合って資金を調達しました。

 建築資材はみんなで手分けして調達しました。木材はTさん、屋根材はSさん、電気工事は・・・といった具合です。建築はもちろん、大工さんに頼らずに自分たちが時間をつくって全員が協力しました。屋根裏は倉庫になるように梯子をかけて使えるように、しっかりとした床にしました。屋根は分厚いアルミの板を苦労して板金加工しました。天井は材料の都合で布張りの襖にしたのです。

 思ったより、かなりしっかりしたスカウトハウスができました。最後に看板をハウスの入り口にかけました。自然な節のあるたて割りの板に、手で切りぬいた金属文字にびっしり飾り釘で止められています。この金属板は、病院のレントゲン室を囲ってある鉛の板です。スカウトハウスは雨風に耐えて、使われてきました。

 しかし、2010年7月「ろくななのスカウトハウス」は駐車場拡張のため、解体されてしまいました。ただ、鉛板の看板は、そっと外されて、今はスカウトハウスとなったマリア館の入口に架けられています。

 今度、教会を訪れることがありましたら、移動した看板を見てください。少し欠けてはいるものの、昔どおりの「ろくななの看板」が、あるはずです。

第33話 わかすぎの里・67音頭(平成20年3月11日)
スカウトに「あ、これは前にやった」と思われるのがいやで、何か新しいことを探していた頃の話。ゲームならいつものゲームでも少し工夫すれば楽しいもので、「かくれんぼ」や「おにごっこ」は、何回やっても面白い。しかしキャンプや舎営は別だとばかり、今年も張り切っていた。

時は1885年、場所は三重県の「わかすぎの里」。小学校の跡地利用で、まだ校舎、教室、グランド、プールはそのまま利用でき、すぐそばに小川が流れているところ。シャワーや風呂などは無かった。

校舎の前のグラウンドを利用して組のデン造りが始まった。インディアンティピーのように180cmほどの小径丸太を数本立て、周りから草や枝を集めて編みこむと日影ができる。粗い編み目の間を僅かに風が通った。秘密の隠れ家だった。

 ゲームやハイキングで程よく疲れた舎営の最後の夜はキャンプファイアーが始まった。各組の出し物は秘密で練習をしてきたもので、みんな一番になろうとワクワクしていた。ファイアーが音を立てて燃え始めた。キャンプファイアーが始まった。

スカウトは海賊しばりで入場したが、女性の副長とデンマザー(デンリーダーの前の呼称)たちは浴衣を着て入場した。スカウトたちの間に、何が始まるのだろうという興味と期待が広がった。そのせいか、この年のキャンプファイアーはいつもより盛り上がった。

プログラムの最後は、デンマザーの出番となった。聞いたことのない歌が謡われ、浴衣のデンマザーが踊りはじめた。踊りを教えたのは、女性のN副長だった。N副長は踊りのお師匠さんでもあった。腰がぴたっときまった。曲は「67音頭」作ったのはH隊長だった。盆踊りのような不思議な時がすぎ全員が踊った。

夏のキャンプが終わって、うわさが流れた。あの夜、キャンプフアイアーが終り、スカウトたちが寝静まったころ、真っ暗なプールでデンマザーたちは、泳いでいたとか・・それも素っ裸で。見たものは、誰もいない。うわさだった。

これが67団に伝わるわかすぎの里プール事件である。


 

第32話 アップルティーと鐘撞きハイク(平成20年1月14日)
 12月31日のNHK紅白歌合戦も後半戦の頃、カブスカウトとその親が窓の灯りが見える夜道を歩いています。ハバザックの中には、暖かい紅茶とクッキーやキャンディが入っています。

 当時でも、大晦日の除夜の鐘をついた経験のある人は少なくなっていました。午前0時に、初もうでに出かける人は多いのですが、人ごみの中での子供は押しつぶされそうで危険です。

 できるなら冒険の旅をした気分になれば、それは楽しい経験と思い出ができるのではないか、と考え鐘つきとハイクを組み合わせることにしました。

 親は親同士、スカウトはスカウト同士、楽しそうに話しながら懐中電灯をたよりに歩きます。距離は4kmで、1〜2度休憩します。誰もいない空き地の熱いアップルティーとクッキーは、何とも言えずワクワクして良い気分です。

 知り合いの寺に着きました。鐘撞き堂には、すでに数人が並んでいて、一冊のノートが置いてあり、これに記帳します。今年は5番目でした。0時が近づくと、あちこちの寺から、それぞれ違う鐘の音色が聞こえ始めました。

 お経が終わると、1人1回づつ撞いていきます。力を入れ過ぎると割れた音になり、弱すぎるとコツンと響きません。意外と難しいものです。撞き終えるとミカンひとつと「鐘撞けばゴオンご恩の鐘の音」と刷り込まれた袋に入った豆をいただきます。

 この後、本堂に入り火鉢に当たりながらお菓子とお茶をいただいて家に戻ります。たった、これだけの事でしたが、何か達成感に満たされたものでした。今から20年以上も前のことでしょうか?

 これが名古屋67団に伝わる、番外編「鐘撞きハイク」です。
 
 
 

第31話 キャンプは泥の中(平成19年9月17日)
 今日も朝から雨。5日前、この野営地に着いたとき空は晴れ、涼しくて、静かで白樺に囲まれたキャンプサイトの設営も順調で、縛材で立ちかまどと食卓まで完成したところで雨になったところまでは幸運だった。

ここは開田高原(当時開田村)。キャンプ場ではない緩い斜面の広場を野営地としたわけだが、休みなく降る雨のため、比較的固かった地面も、少しずつぬかるんで来て、ついに長靴を履かなければキャンプサイトの中を歩けなくなった。

撤収のため到着したトラックは、Uターンしようとして、ぬかるみはまり出られなくなった。スカウトもリーダーも全員でモンキーブリッジ用の太いロープでトラックを縛り、引っぱった。空回りする車を後ろから押したリーダーたちは、むなしく回転するタイヤから飛ぶ泥で顔から胸まで真っ黒になった。

 それでもスカウトたちは、これまで、ふだんのキャンプと変わらない生活をしていた。食料の配給も、水汲みも、もちろん立ちかまどの上の炊事も、スカウトから泣き言らしきものは無かった。最終日、キャンプの閉会式は、制服でなく私服にネッカチーフ、長靴で行われた。これから帰りの公共機関を利用するのに泥だらけの制服で帰りたくなかったからだ。

すべて撤収したあとの点検をして、隊長たちは感動した。あれだけの泥の中のキャンプだったが、班員たちが掘った側溝に守られた彼らのテントの下は、見事にそこだけ乾いていた。

帰り道、降り続く雨で神奈川県西部の玄倉(くろくら)川の中州でキャンパーが多くの死者を出しているニュースを聞いた。1999年(H11)8月のことだった。これが名古屋67団に今も残る、「泥の中のキャンプ」の話です。

第30話 柿其のトランペット(平成19年4月22日)
 カブ隊は、膝辺りの深さの小川で救命具を着けた。旧い救命具だった。現在のようなベスト型でなく、水に浮く枕を胸と背中で縛る型で、まるで先の戦争の映画に出てくるような旧い形をしていた。

ここは国鉄(当時)中央線の読書(よみかき)の柿其(かきぞれ)。谷川の流れる里山の奥に民宿があった。

4mほどの川にロープを張って、下流でリーダーが監視した。ほんの3mほどのよどみを利用して、ロープを投げた。これを握った救命具着けたスカウトを対岸から引っぱるという単純なゲームだった。カブ隊員には、大真面目な冒険だった。

一方、ボーイ隊は、近くの山を開拓したばかりの野営地だった。都合で国旗掲揚柱は、カブ隊の舍営地とボーイ隊の野営地の間に1本だけ立てた。問題ができた。国旗掲揚の合図のホイッスルが聞こえ辛かった。そこで、号笛(ホイッスル)の代わりにトランペットを使うことにした。ブラスバンド部員のS隊員とH隊員が掲揚柱の横に直立した。

「揚げ!」国旗が揚がり始めると二人のトランペットの音が、カブ隊とボーイ隊の整列の輪に響いた。これが、昭和62年夏に実施された、名古屋67団に残る、国旗掲揚トランペットの話である。


第29話 消えた舎営章(2007年3月17日)
カブスカウトは、舎営章をひそかにねらっています。特に夏期舎営章はアックス型舎営章、ナタの形の舎営章などボーイ隊で使用される形に人気がありました。舎営期間中、朝の点検・ゲームの成績・リーダーとの約束・チームワーク・元気だったかなど総合的に一番成長した組にひとつだけ優秀組に授与されるものです。

1997年8月、愛知県茶臼山キャンプ場で実施された閉会式のことでした。いよいよ各章の発表です。チームワーク章やゲーム章などのあと、最後に舎営章が発表されました。しかし、なかなか舎営章の授与がされません。回りのリーダーが急に慌てはじめました。用意してあるはずの舎営章が無いのです。

少し前、といっても20年前のこと、名古屋67団にナイフブームがありました。ピューマ・ビクトリノックス・ウエンガー・バック・ガーバー・アイトールなど自慢のナイフで木を削ったり、料理をしたりしました。当然のように舎営章もナイフで作ります。

今回の担当は、Y団委員。暇を見つけては木を削り始めました。何を作っているかは誰にも見せません。何ができるのかは秘密で、みんなこれが楽しみでした。そして夏期舎営の最後に、カブ隊長にそっと渡した・・はずでした。それが何処にもないのです。周りのリーダーたちも、撤収に気がせいていて見ていません。ひょっとして、木屑に紛れて側の焼却炉の捨てたかもしれません。

結局、舎営章は練習用に作ったものを渡しました。(スカウトたちは、このことは知りません)この、事件の後から、舎営章は閉会式の直前まで作った人が持っていて、みんなの前で隊長に渡すことになりました。

今度、カブハウスに入ったら頭の上を見てください。重そうにいっぱい舎営章などがボードにしばってあるのに気がつくと思います。これは、たくさんのカブスカウトが元気に舎営章めざした証拠なのです。組旗が重くなったのでボードに移したものです。このなかに、あの時の舎営章がきっとあることでしょう。これが、67団に残る「消えた舎営章」の話です。

今年の舎営章は、どんなかな?



第28話 空飛ぶテント(2007年2月15日)
2月の藤原岳。シニア隊は避難小屋で持参の弁当で昼食をすませ、一息ついた。後から到着し、小屋に入ってきた登山客が「テントが空を飛んでいる」と教えてくれた。シニア(SS)隊はあわてて全員外に飛び出した。食事前に設営したテントだった。中身を無くしたドームテントはフライシートだけになっていた。幸いテントは、小山の向こうまで飛んでいって低木に引っかかって揺れていた。しっかり固定したはずだったが、強風に押し出されるように本体は、フライシートの狭い隙間から変形しながら抜けていた。

20年前の2月のある日、名古屋67団のシニア隊(現在のベンチャー隊は、当時こう呼ばれた)恒例となっていた、ボーイ隊のグリーンバー雪中ハイクを、前日から泊り込んで出迎えようと計画されたキャンプだった。小屋の前の非常用のドラム缶の水は20cm以上凍っていた。低山とはいえ、根雪となった頂上付近の寒さは厳しかった。

SS隊員たちは、雪を解かして水をつくり夕食をつくったが、なれないスカウトは苦戦した。雪の山中のキャンプは初めての経験で、装備もそれほど充実していなかった。それでも食事担当のH隊員、寒さを考え当時まだ一般的でなかった「キムチうどん」にした。夕食のあと、隊員達は眠ろうとするが、なかなか寝付けなかった。寒気厳しくまんじりともせず朝を迎えた。

昼近くになって、荒い息をつきながらボーイ隊が到着した。何事もなかったように出迎えるのはM隊長、H副長、M隊員、T隊員、S隊員、H隊員、N隊員だった。ボーイ隊員は、はためく国旗と雪中のテントを見て尊敬と驚きの表情でSS隊員を盗み見た。SS隊が大人に見えた。

これが20年も前から伝わる「空飛ぶテント」の話です。そして「キムチうどん」の67団初デビューの日でもありました。

第27話 大地の窓(2007年1月7日)
30人のカブスカウトが枯れ葉の中から顔だけ出して、動かずにじっとしています。耳を澄ますと、小鳥のさえずりが聞こえ、林の間から流れる雲、芽を閉じると耳の側を歩く何かカサカサ音がします。

ここは愛知県の「森林公園」のずっと奥の林の中です。今から20年前の1987年11月の名古屋67団カブ隊の「特別隊集会」です。相変わらず11月の隊集会を考えていた時、一冊の本を見つけました。

「ネイチャーゲーム」という聞きなれない言葉でした。帯文には「これは単なるゲーム集ではありません自然を魂の奥深い部分で感じとる、画期的な”冒険とあそびと感動のプログラム”です。」「この本は、あなたと子どもたちに、自然そのものに接する、全く新しい心と知恵を与えてくれるでしょう」すぐに飛びつきました。

じつは、この特別隊集会は、名古屋西地区の友団、4箇団の隊長と相談して、このこの森林公園の隊集会を計画し呼びかけたものでした。もちろんスカウトには秘密の計画でした。

偶然、公園で出会ったように「やあ、今日は!」「一緒にゲームしませんか?」公園のあちこちで、始まりのセレモニーが各団別々に実施し、その後合同のゲームをしました。この後に67団が始めたのが、このネイチャーゲームで「大地の窓」といいます。

自分が森の一部となって、そこから森を見ると言う不思議な体験をしました。広い無人の大地に2〜3m全員が、離れて仰向けに枯れ葉の上に横たわりました。その上に顔だけだして、あとは全身に枯れ葉をかけてもらいます。これででき上がりです。

今でこそ、各地で実施されている「ネイチャーゲーム」(米国ジョセフ・B・コーネル著、1986年8月10日第1刷発行)が、名古屋67団で隊集会として実施された始まりです。

そのほか、スカウトに好評だったのは別のプログラム、宝さがし「宝ものリスト」です。・・自然のたからものを探しましょう。危険なものや、自然をこわしてしまうものはとってはいけません。・・(1)鳥の羽毛(1本)(2)風に飛ばされた種(1つ)(3)何でも良いからぴったり(100個)(4)カエデの葉(1枚)・・・・(25)あなたの笑顔。
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